米沢藩最後の藩主にして、明治維新後に2代目の沖縄県令になった人物。
維新後に「旧慣温存」の扱いで中国(清国)と日本の両属を強いられ、貧困にあえぐ沖縄の近代化に奔走した人物。
度重なる明治政府への窮状を訴える上申状が原因か、県令はわずか2年しか努められなかったが今なお沖縄で敬愛される数少ない本土人の1人である。
初代県令であった鍋島直彬より琉球の「旧慣温存」による琉球の窮状を伝え聞く。
沖縄県が明治維新に入ってもうやむやのまま清国と日本の両属関係を強いられている状態を強いられている状態を見聞し上杉鷹山公の精神をもって県民救済を決意する。

故郷の米沢藩から出る時に上杉家の相談人たちが開いてくれた送別会で茂憲は「3ヶ条の建議書(心構え)」を受けとった。
・県民の撫恤や教育にお金は惜しまない!
・事にあたっては熟慮のうえで勇断を!
・信義を重んじて朝令暮改にならないように!
上杉鷹山公の精神文化を引き継いできた米沢藩らしいエールです。
県民の生活実態を査察
就任してすぐに島内の村々を視察して回り現状を把握した。
「沖縄本島巡回日誌」なる記録も残されており、主に下記の内容をヒアリングして回った。特に廃藩後の県民の生計について意識していたようだ。
・作物の豊凶
・村の景況
・窮民者の有無
・小学校設立の状況
・主要産物(砂糖)の実態
・人身売買の有無
・負債の多寡
視察は沖縄本島から先島諸島にまで及んだ。
就任した年に沖縄本島の視察をした内容をまとめ翌年には離島の咲洲も積極的に臨んだ。
就任当初より「学業励行」を啓蒙
県民の生活実態を把握しながら、村々を回った際も学校にも視察しており簡単な試験を行って優秀なモノには褒美をとらせていた。その際にも学校への就学率を気にしており、農耕へ人手が必要であることを認めつつもなるべく子供を学校に通わせるように説諭した。
また、学校建築に努力する村には20円の寄付をするなどした。
総じて県内では学業に力を入れる村々が多くあり、市役所の一部を教育の場として開放しているところさえあった。
忠臣・池田成章と業務連携
上杉家の家宰でもあった池田成章も沖縄県令の書記官として任命されており、上杉茂憲の業務を支えた。茂憲とは幼馴染であったばかりではなく同じく上杉鷹山の薫陶を受けた一人でもあり、常に茂憲とおなじく「常に民の父母であれ」という精神で職務にあたった。
茂憲が沖縄県内の視察する間に、維新前からの日清両属をうやむやのまま続けてきた「旧慣温存」の統治方法の弊害を徹底調査した。
村々にのしかかる巨額の借金
視察で茂憲も肌身に感じていたことが村々に「宿債(以前からの負債)」としての借金の多さだった。当時、明治政府は砂糖を値上げして沖縄県より買い取っていたが、その売り上げが借金返済にあてがわれており県民の世界つを潤せるものではなかった。
池田成章の調査結果でも同様の関連性がみられ二人は貧困にあえぐ沖縄県民に横たわる「旧慣温存」の認識をあらためた。
「旧慣温存」の正体
「旧慣温存」の正体は王朝時代より続く「土地」「租税」「地方」の制度にあった。
地割制度(土地制度)
王朝がいかに効率的に税を徴収するかという目的で立ち上げられた制度で、田畑や山野を各地域に配分する制度である。配分の基準は村の人口や年齢層、性別など諸々の資力を勘案している。
この配分は一定期間が経つとまた再分配され、地域全体の税負担を公平化する事を狙っていた。
しかし地域の有力者が奪い合いをはじめてしまい公平な分配化は形骸していった。
租税制度
租税制度は分配された土地が適用されるという事を前提に担当した土地を耕して税収を稼ぎ出す。
税は個人ではなく「村単位」にかけられるものであった。
米・塩の金納は許されていたが砂糖だけは現物納付が前提とされた。砂糖は県当局が定めた金額を現物納付することになるが、個人的な売買は厳しく禁止されていた。

